家づくり西方設計:足軽・徒士の家
2022-02-06T09:00:11+09:00
nisi93jp
家づくり
Excite Blog
足軽の家シリーズ:安間家 徒士住宅
http://nisi93.exblog.jp/29679992/
2021-10-01T15:57:00+09:00
2021-10-01T16:21:32+09:00
2021-10-01T15:57:27+09:00
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足軽・徒士の家
篠山藩主青山家の家臣の安間家は2015年の見学
「高12石3人扶持」の禄で、標準的な徒士住宅。
と言いながら、現代的には39.65坪は恵まれている。
家屋:131.35m2(39.65坪)
土蔵:28.68m3(8,66坪)
下級武士で禄は少ないが、
家屋と土地は藩主から与えられているので、その分は生活の足しになる。
広い土地の大部分は畑にし食料は確保ができている。
以下の文章はウイズささやまHPから転用
安間家史料館は天保元年(1830)以降に建てられた武家屋敷で、
平成6年(1994)10月から翌年3月にかけて全面的な改修を行い、
史料館として一般に公開したものです。
江戸時代、篠山城の外堀の周縁には、その身分によって武家屋敷が配置されていました。
安間家は篠山藩主青山家の家臣で、「高12石3人扶持」の禄を得る下級武士の一家でした。
その住宅は通称「御徒士町」と呼ばれる武家屋敷群の一角にある標準的な徒士住宅で、
茅葺で曲屋形式の母屋と瓦葺の土蔵が残っており、当時の武家の暮らしを伝えています。
内部には、安間家に伝来した古文書や日常に用いられた食器類や家具をはじめ、
のちに寄贈を受けた篠山藩ゆかりの武具や史料を展示しています。
旧安間家住宅は、平成6年5月20日に市指定文化財となっています。
母屋は正面を東に向け、間口六間半(約13メートル)、奥行七間半(約15メートル)あり、
部屋割は正面に向かって玄関、右奥に庭園に面した八畳の座敷を配置し、
玄関奥には台所、座敷の奥に仏間、居間が続いています。
全景
通り土間
門
表側
通り土間
徒士(かち)江戸幕府や諸藩に所属する徒歩で戦う下級武士のことである。
近代軍制でいうと、馬上の資格がある侍(馬廻組以上)が士官に相当し、
徒士は下士官に相当する。
徒士は士分に含まれ、士分格を持たない足軽とは峻別される。
戦場では主君の前駆をなし、
平時は城内の護衛(徒士組)や中間管理職的な行政職(徒目付、勘定奉行の配下など)に従事した。
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彦根足軽屋敷
http://nisi93.exblog.jp/28395883/
2019-06-14T10:59:00+09:00
2021-09-30T11:52:36+09:00
2019-06-14T10:57:40+09:00
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足軽の家
伝統建築というと、寺社建築、武家屋敷、旦那町家、肝いり農家などを思い浮かべるのだが、
私にとっては、立派すぎてあまり参考にならない。 現代の国民の多くの家に、
足軽屋敷や長屋の規模が参考になる。
軸組や小屋組や仕上げに過剰さがない素直な建築である。
素の建築である。 川井先生夫妻は離れに住まいながら修復保存していくそうだ。
今後が楽しみである。
滋賀県立大学の金子先生が同行された。川井先生、案内を有難うございました。
高速道路の片側通行の渋滞と、方向音痴のため、
1時間もの遅れで時間の無駄遣いをさせてしまい、
すみませんでした。
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金ヶ崎町城内諏訪小路重要伝統的建造物群保存地区4:三ツ屋形式片平丁旧大沼家侍住宅3
http://nisi93.exblog.jp/18902434/
2012-09-21T11:54:00+09:00
2022-02-06T09:00:11+09:00
2012-09-21T11:54:38+09:00
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足軽・徒士の家
昨年の3.11大震災時に土壁にひびが入ったので補修していた。三ツ屋根形式の右の母屋と左の馬小屋。]]>
金ヶ崎町城内諏訪小路重要伝統的建造物群保存地区2:三ツ屋形式片平丁旧大沼家侍住宅1
http://nisi93.exblog.jp/18882994/
2012-09-18T11:26:00+09:00
2022-02-06T08:58:56+09:00
2012-09-18T11:26:40+09:00
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足軽・徒士の家
他の興味は保存地区の中の3棟の別棟形式の片平丁旧大沼家侍住宅である。
18世紀末頃の創建と考えられる。当地方特有の三ツ屋形式。
母屋は桁行7.5間梁間3.5間の26.25坪、広間型3間取り。
要害大庭に沿った屋敷で1,000坪を超える。
石高は3石。
金沢城主(要害)の伊達家の大身家臣の大町氏は3,000石。
30石で300万円相当との記憶があり、
それだったら年収が30万円になり、極めて低い。
最下層の武士なのだが、1,000坪の屋敷と家は無料で借りられ、
屋敷のほとんどは畑で自給自足だったのだろう。
内職もしただろう。
無役で平時の仕事はなかったようだ。
小路が通りになっている。
諏訪小路、裏小路、表小路、達小路、船戸小路などの名称がついている。
多くがそのまま残されている。
重要伝統的建造物群保存地区の殆どは武家屋敷街や商家街や宿場町の建物が連続したものだが、
ここでは、緑の小路や屋敷森が景観となっていて興味深い。
数日かけて再度行ってみたい。
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信州・軽井沢行き 22:須坂市歴史的建物園 町家
http://nisi93.exblog.jp/6778970/
2007-11-12T16:31:00+09:00
2021-09-30T11:54:42+09:00
2007-11-12T16:31:59+09:00
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足軽の家
HPから
「旧牧家
江戸末期の町屋で、旧須坂市内に残された唯一の総茅葺き屋根のL字型の曲屋です。街道に面していた表側(向かって左側)が「みせ」、その背後に板の間の台所、土間、味噌部屋が配置されています。」
極簡単な軸組と小屋組である。太い梁を重層に組む事なく、好感が持てる、これで良いのだ。
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信州・軽井沢行き 19:須坂市歴史的建物園 武家長屋1
http://nisi93.exblog.jp/6767937/
2007-11-10T12:45:00+09:00
2021-09-30T11:51:09+09:00
2007-11-10T12:41:37+09:00
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足軽の家
歴史的建物園について、HPから
「明治時代の製糸業の繁栄を偲ばせる長屋門をくぐると、江戸時代の武士、町人の住居であった旧須坂藩の武家長屋や油屋、藩医が開いた私塾、、可能な限り建築当時を忠実に復元されています。 須坂市内の歴史的価値をもつ建物園を移築、復元しています。」
旧須坂藩の武家長屋に着いて、HPから
「江戸末期の建物。一戸建ての住宅に住めたのは中士以上の侍で、下士や足軽は十一戸の長屋に住んでいました。 この武家屋敷は十一戸長屋のうち、一戸を復元したもので、棟や軒隅に亀甲卍の藩紋が残されています。」
3間半×3間の10.5坪と小さい。
このパターンが左右に連続する。
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「「幕末下級武士の絵日記」を読む」を読む 2
http://nisi93.exblog.jp/6123081/
2007-07-19T14:31:00+09:00
2021-09-30T11:47:26+09:00
2007-07-19T14:31:37+09:00
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足軽の家
絵日記は「石城日記・全七冊」で、作者は江戸時代後期の忍藩(松平10万石=埼玉県行田市)の10人扶持の下級藩士、尾崎石城(隼之助)である。
尾崎が33歳の文久元年から翌2年まで178日間の様が書かれている。2年前には安政の大獄、1年前は桜田門外の変、6年後に明治維新と激動の時代だ。
尾崎は江戸詰めの庄内藩士浅井勝石衛の子、その後、忍藩士尾崎家の養子になる。当初は御馬廻役100石の中級身分だが、安政4年の29歳の時に上書し藩政を論じ、蟄居、10人扶持の下級藩士になる。
忍藩は水戸藩と対極の立場にあったが、忍藩士の尾崎は水戸浪士の所業・尊王攘夷に共鳴していた。
尾崎は激動の時代に生きたが、日々の生活は、登城は週に2〜3日で、読書三昧。その他、10人扶持でありながら、文才と画才があり、絵と読み書きの手習いで生計を立て、妹夫婦に同居する独り身であったためか、自宅・友人宅・寺・料亭での飲食・遊興の日々であった。
その様が、絵と文章で日記が書かれている。
日記が書かれた、年末には、その2ヶ月前の過酒による不行で閉戸(自宅謹慎)されている。しかし、勉学と実直さから、維新の年に藩校培根堂の教頭、宮城県大主典となり、その後46・7歳で死去している。
自宅や友人宅や懇意の寺での酒宴の際には、さしみ・ぬた・煮付・湯豆腐などが並び、4月2 日の友人を招いての夕食(絵)には「目黒さしみ、目黒ねぎ、ぬた、鯔塩やき、蓮根、豆腐田楽、さけ三升、杓杷めし」が並んでいる。自分たちで、食材を持ち込み料理する事が多かったようだ。
しかし日々の、朝食はつみ入れ汁・豆腐汁、昼食は豆腐・茄子漬け、夕食は豆腐・目ざしなどが主であり慎ましやかな生活であった。
10人扶持とは、10人が一年間に食べる米が藩から支給される。一日に5合の米を食べるとすると、5合/1日×365日=1,825合=18,25斗=1石8斗で、10人だと18石(1,800升)。現在の標準米価格は1石=63,000円なので、約113万円の年収になる。
低給だが、家と屋敷は藩から拝領(無料の借家)され、屋敷は広かったので家庭菜園で自給できていた。
忍藩からの家の拝領は、尾崎などの10人扶持取り下級武士の家は13.5坪前後、他藩では30坪前後。86石取りの中級武士の家は24.5坪前後、他藩では40坪前後。
下級藩士は低給な事から傘張りなど様々な副業をもたなければならなかった。尾崎の場合は絵と読み書きの手習いが副業だった。
ちなみに、中級武士は100石取りの現在価格で330万円以上、上級武士は300石とりの現在価格で1000万円以上の年収になる。
下級武士の扶持取りとは、扶持米(俸禄米)を給せられる。徒、足軽、小人、組士、同心など。
中級・上級武士の禄高何石とは、知行米(知行地を与えられ、年貢によって生活)を給せられる。江戸中期から実際は俸禄米。
「石城日記・全七冊」には、尾崎石城たちが町家の店で買った食材の値段が書かれている。3人分のマグロ刺身300文(現在価格に直すと5,000円=1,700円/人)。塩引き、酒も同価格である。3人分のタラ70文(現在価格に直すと1,170円=390円/人)。
一人当たりの飲食代が5,490円。自宅での飲食代にしては高い。当時、高級なマグロ刺身や塩引きを止め、酒とタラなみのが3品だと2,870円。現在もこんなもんか。
良く出てくる料亭は中屋、山本屋、四つ目屋、大利楼である。料亭大利楼では、玉子焼・茶碗蒸し・くるまなすの甘煮などで、席かえ込みの1万3千円になっている。料亭である。]]>
三重にて15:御城番屋敷1
http://nisi93.exblog.jp/5502546/
2007-04-13T17:51:00+09:00
2021-09-30T11:44:00+09:00
2007-04-13T17:51:50+09:00
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足軽の家
御城番屋敷に行ってみて、1戸が土間を入れ27坪前後と大きかった。住んでいた武士は資料から40石取りの与力。当時、江戸での与力の禄高は平均200石であることから低い。が---。
旧新発田藩の足軽長屋は土間を入れ11坪である。足軽は5石前後から10石前後である。これなら「初源な家」だが、松阪城御城番屋敷は屋敷と名称されるほどだ。私の「初源な家」ではなかった。
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