2007年 12月 31日
静けさの中で |
昨日までは仕事だった。
今日の吹雪のなかの事務所は、私が一人、静けさの中で音楽を聴きながらゆっくりしている。
思考する、思考にふける、至福の時間と空間だ。
昨日の夜は、布団に入りながら、清家清特集の住宅建築1月号と「激変する戸建住宅の省エネ・エコの整理整頓」の特集の建築技術1月号を読んで、早めの12時半に眠った。
朝5時半に目が覚め、熟睡できた。そのまま起き、新聞を読んでいたら、TV欄の伊東忠太特集が目に入り、始まりの6時から15分ほど過ぎていたが8時まで見た。
この数年、伊東忠太ブームである。彼を知るにはチャンスなのだが、私のこの数年は木造モダニズム探求が手一杯で、興味がある伊東忠太までは手も思考も出ないどころか延びない。
私も悩んでいるが伊東忠太も悩んでいた。悩んだ結果の建築は好きではないが、思考に興味がある。
自分に刻まれている「ものつくり」の源流の探求・確認と、確認後どうするのか・どうなるのか。
戦前・戦中の吉田鉄郎、戦後の増沢洵などの木造モダニズムには建築生産として、伊東忠太には思考と思考経路として興味がある。
HPから
「番組では、「迎賓館」という明治の象徴の創設から、100年目の改修を軸に、ここに秘められた明治以来の「日本のアイデンティティ探し」の軌跡を追いかける。」
長いが、続く。
「「建築」という言葉が生まれたのは、明治時代である。建築は、国家の顔であり、建築家は、国を造る人になった。建築の歴史は時代を雄弁に語る。「西洋」に少しでも近づこうと、がむしゃらだった明治の初期、西洋を勉強し続けた第一世代、彼らは鹿鳴館の時代から日本に「西洋」を築き続けた。
そんな肩肘張った世代を横目に、日本回帰、自由奔放に生きようとした第二世代がいる。彼らが造った建物から、日本の時代の変化がよく見えてくる。
外国から呼ばれたお雇い外国人コンドルから学んだ片山東熊、辰野金吾等の第一期生。彼らは東京大学でコンドルに学び、「西洋」を吸収しようと躍起になって留学。帰国した彼らは、次々と「国の顔」を建てていく。東京駅、日本銀行、博物館・・・。それらの建物は、「官」のものであり、「西洋そのもの」であることが何よりのステータスだった。
悩みはなかった。しかしその裏で、「日本」は忘れられていった。 ニッポンは大きく変わり始めた。そして、その頃多感な青春を迎えた若者たちは、悩んでいた。
時、明治20年代。伊東忠太…。ばりばり西洋の教育を受けてはいるものの、釈然としないものを感じていた。
奈良へ向かう。日本最古の木造建築・法隆寺を隅から隅まで測りまくる。そして「発見」をした。 「この寺の柱のふくらみは、ギリシャのパルテノン神殿と同じだ!」 あの西洋文明の源流が、こんなところに脈づいている…。忠太は、対峙する西洋ではなく、西洋と日本をつなぐものを探し始める。
鹿鳴館の時代から日清戦争へ、国の運命を握った政治家の多くは「長州人」たちだった。伊藤博文、井上馨、山県有朋達が国家の財政を握り、長州出身の片山東熊が建物を建てた。
しかしその一群とは別に米沢から出てきて、西洋に疑問を持ちアジアの独自性を追いかけた建築家が伊東忠太だった。
同じ頃、片山東熊は世紀の仕事を担う。やがて天皇となる東宮の住まいだった。同じ長州出身の山県が引き立ててくれた仕事だった。ベルサイユ宮殿のようにしたい。片山は富と権力をバックに、レンガ・鉄筋を惜しげもなく使い、仕上げていく。
「赤坂離宮」が完成した。しかし、この建物は最初から不幸を背負って生まれてきた。それが、今回の平成の改修へとつながっていく…。 「本物西洋」を手にしたかに見えた明治末から100年 明治時代に作られた建築は、今なお雄弁に語る 明治の希望、挫折、苦悩、決断を。」
TVのエピソードとして、「片山東熊が明治天皇に直接合った時の言葉「豪華過ぎる。」を受け、その言葉の重さから体調を壊し、数年後に亡くなった。」と。
番組では、伊東忠太の西洋と日本の狭間の悩みを、慶応3年に同じく生まれた夏目漱石の同様な悩みに重ねて紹介されていた。
しかし、伊東忠太は西洋と日本の狭間の悩みはばかりではない。東北の米沢出身だから、大和と非大和の狭間にも悩んでいただろう。
伊東忠太は西洋から日本へ、日本=大和を探求するが、それだけで満たされないものがある。法隆寺のエンタシスからパルテノンだけではない。
パルテノン神殿は地中海のギリシャ文明だけでできているのではない、ヨーロッパ文明のもう一つの源流の北の森の文明も入っている。
非大和の出雲大社を、足(柱脚)を長くし上部を扁平にし、石造にすればパルテノン神殿だ。
外は吹雪いている。
今日の吹雪のなかの事務所は、私が一人、静けさの中で音楽を聴きながらゆっくりしている。
思考する、思考にふける、至福の時間と空間だ。
昨日の夜は、布団に入りながら、清家清特集の住宅建築1月号と「激変する戸建住宅の省エネ・エコの整理整頓」の特集の建築技術1月号を読んで、早めの12時半に眠った。
朝5時半に目が覚め、熟睡できた。そのまま起き、新聞を読んでいたら、TV欄の伊東忠太特集が目に入り、始まりの6時から15分ほど過ぎていたが8時まで見た。
この数年、伊東忠太ブームである。彼を知るにはチャンスなのだが、私のこの数年は木造モダニズム探求が手一杯で、興味がある伊東忠太までは手も思考も出ないどころか延びない。
私も悩んでいるが伊東忠太も悩んでいた。悩んだ結果の建築は好きではないが、思考に興味がある。
自分に刻まれている「ものつくり」の源流の探求・確認と、確認後どうするのか・どうなるのか。
戦前・戦中の吉田鉄郎、戦後の増沢洵などの木造モダニズムには建築生産として、伊東忠太には思考と思考経路として興味がある。
HPから
「番組では、「迎賓館」という明治の象徴の創設から、100年目の改修を軸に、ここに秘められた明治以来の「日本のアイデンティティ探し」の軌跡を追いかける。」
長いが、続く。
「「建築」という言葉が生まれたのは、明治時代である。建築は、国家の顔であり、建築家は、国を造る人になった。建築の歴史は時代を雄弁に語る。「西洋」に少しでも近づこうと、がむしゃらだった明治の初期、西洋を勉強し続けた第一世代、彼らは鹿鳴館の時代から日本に「西洋」を築き続けた。
そんな肩肘張った世代を横目に、日本回帰、自由奔放に生きようとした第二世代がいる。彼らが造った建物から、日本の時代の変化がよく見えてくる。
外国から呼ばれたお雇い外国人コンドルから学んだ片山東熊、辰野金吾等の第一期生。彼らは東京大学でコンドルに学び、「西洋」を吸収しようと躍起になって留学。帰国した彼らは、次々と「国の顔」を建てていく。東京駅、日本銀行、博物館・・・。それらの建物は、「官」のものであり、「西洋そのもの」であることが何よりのステータスだった。
悩みはなかった。しかしその裏で、「日本」は忘れられていった。 ニッポンは大きく変わり始めた。そして、その頃多感な青春を迎えた若者たちは、悩んでいた。
時、明治20年代。伊東忠太…。ばりばり西洋の教育を受けてはいるものの、釈然としないものを感じていた。
奈良へ向かう。日本最古の木造建築・法隆寺を隅から隅まで測りまくる。そして「発見」をした。 「この寺の柱のふくらみは、ギリシャのパルテノン神殿と同じだ!」 あの西洋文明の源流が、こんなところに脈づいている…。忠太は、対峙する西洋ではなく、西洋と日本をつなぐものを探し始める。
鹿鳴館の時代から日清戦争へ、国の運命を握った政治家の多くは「長州人」たちだった。伊藤博文、井上馨、山県有朋達が国家の財政を握り、長州出身の片山東熊が建物を建てた。
しかしその一群とは別に米沢から出てきて、西洋に疑問を持ちアジアの独自性を追いかけた建築家が伊東忠太だった。
同じ頃、片山東熊は世紀の仕事を担う。やがて天皇となる東宮の住まいだった。同じ長州出身の山県が引き立ててくれた仕事だった。ベルサイユ宮殿のようにしたい。片山は富と権力をバックに、レンガ・鉄筋を惜しげもなく使い、仕上げていく。
「赤坂離宮」が完成した。しかし、この建物は最初から不幸を背負って生まれてきた。それが、今回の平成の改修へとつながっていく…。 「本物西洋」を手にしたかに見えた明治末から100年 明治時代に作られた建築は、今なお雄弁に語る 明治の希望、挫折、苦悩、決断を。」
TVのエピソードとして、「片山東熊が明治天皇に直接合った時の言葉「豪華過ぎる。」を受け、その言葉の重さから体調を壊し、数年後に亡くなった。」と。
番組では、伊東忠太の西洋と日本の狭間の悩みを、慶応3年に同じく生まれた夏目漱石の同様な悩みに重ねて紹介されていた。
しかし、伊東忠太は西洋と日本の狭間の悩みはばかりではない。東北の米沢出身だから、大和と非大和の狭間にも悩んでいただろう。
伊東忠太は西洋から日本へ、日本=大和を探求するが、それだけで満たされないものがある。法隆寺のエンタシスからパルテノンだけではない。
パルテノン神殿は地中海のギリシャ文明だけでできているのではない、ヨーロッパ文明のもう一つの源流の北の森の文明も入っている。
非大和の出雲大社を、足(柱脚)を長くし上部を扁平にし、石造にすればパルテノン神殿だ。
外は吹雪いている。
by nisi93jp
| 2007-12-31 12:52
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