2007年 11月 22日
信州・軽井沢行き 30:海野宿 |
10月8日朝、別所温泉「花屋」を出、小諸、軽井沢へと向かう。今日が最終日の3日目。
途中、時間的に予定にはなかったが、近くらしい海野宿の道路標識が出て来たので、建築設計の根本さんと私が「見よう。」。早朝の小雨の中を二人で足早に見学した。
HPから
「海野宿は寛永2年(1625)に北国街道の宿駅として開設されました。
北国街道は、中山道と北陸道を結ぶ重要な街道でした。佐渡で採れた金の輸送、北陸の諸大名の参勤交代のほか、江戸との交通も頻繁で善光寺への参詣客も多くありました。
寛保2年の大洪水によって隣接する田中宿が被害を受け、本陣が海野宿へ移されてからは、伝馬屋敷59軒、旅籠23軒と、たいへんな賑わいを呈していました。
明治に入り宿場機能が失われてからは、養蚕の村へと移り変わりました。
海野宿は伝統的な家並みが現在まで保存されていることから、昭和61年には「日本の道百選」に、62年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定を受けています。」







うだつ

うだつ

HPから 卯建(うだつ)
「うだつ」には、いくつかの種類があり、江戸時代の「本うだつ」は建物の両側にある妻壁を屋根より一段高く上げたもので、防火壁の役割を果たすことから「火回し」とも呼ばれます。明治時代に入ると、より装飾的な「袖うだつ」も設けられるようになりました。いずれも富裕の家でなければできないもので、ここから「うだつがあがらぬ」という言葉も生まれました。

途中、時間的に予定にはなかったが、近くらしい海野宿の道路標識が出て来たので、建築設計の根本さんと私が「見よう。」。早朝の小雨の中を二人で足早に見学した。
HPから
「海野宿は寛永2年(1625)に北国街道の宿駅として開設されました。
北国街道は、中山道と北陸道を結ぶ重要な街道でした。佐渡で採れた金の輸送、北陸の諸大名の参勤交代のほか、江戸との交通も頻繁で善光寺への参詣客も多くありました。
寛保2年の大洪水によって隣接する田中宿が被害を受け、本陣が海野宿へ移されてからは、伝馬屋敷59軒、旅籠23軒と、たいへんな賑わいを呈していました。
明治に入り宿場機能が失われてからは、養蚕の村へと移り変わりました。
海野宿は伝統的な家並みが現在まで保存されていることから、昭和61年には「日本の道百選」に、62年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定を受けています。」









HPから 卯建(うだつ)
「うだつ」には、いくつかの種類があり、江戸時代の「本うだつ」は建物の両側にある妻壁を屋根より一段高く上げたもので、防火壁の役割を果たすことから「火回し」とも呼ばれます。明治時代に入ると、より装飾的な「袖うだつ」も設けられるようになりました。いずれも富裕の家でなければできないもので、ここから「うだつがあがらぬ」という言葉も生まれました。

by nisi93jp
| 2007-11-22 09:36
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