2013年 11月 05日
庄内の旅1:石置き屋根の風間家「丙申堂」1 |
「明治29年丙申の年に、風間家七代当主(幸右衛門)が、住居及び営業の拠点として建築したもので、八代当主(幸右衛門)が建築年に因み「丙申堂」と名付けた。
主屋を中心に南側は道路に面し薬医門と前蔵、西側に中蔵と奥蔵、北側に小蔵(金庫蔵)を配す。この建物は、明治27年の酒田地震を教訓にして建てたと伝えられ、広大な板の間に架ける梁をトラス状にし大黒柱で支えるなど工夫の跡が見られる。なお、平成8年12月に主屋、同11年6月に付属の表門(薬医門)各蔵、板塀、風呂場等が国登録有形文化財となり、また、同12年12月に国指定重要文化財となりました。」
「」部分は「公益財団法人克念社」のホームページから転用。
何と言っても「石置き屋根」が特色だ。
酒田の鐙屋も石置き屋根である。
裏側駐車場から石置き屋根を見る。 正面玄関。玄関先の土庇は瓦だが他派石置き屋根。 大きな家である。延1,249.76㎡(延377坪) 石置き屋根。 石置き屋根。のアップ。
「敷地2,598.24㎡(公簿)
(約787坪)
建物木造杉皮葺、石置屋根
延1,249.76㎡
部屋数19室
畳数180畳
蔵数4
屋根の置石の数約40,000個
風間家の祖は、沢海(ソウミ)藩(現新潟県新潟市沢海)の武士であったが、商人となり村上、酒田を経て、鶴岡には18世紀後半に移住したと伝えられている。
その後、鶴岡城下で藩の御用商人として呉服、太物屋を営み幕末には鶴岡第一の豪商となった。
明治期には貸金業に転じ、庄内地方では酒田の本間家に次ぐ大地主に成長し、鶴岡の産業振興に力を注いだ。その一方で児童福祉などの慈善事業を行い、現在は育英事業等に尽力している。」
「」部分は「公益財団法人克念社」のホームページから転用。
主屋を中心に南側は道路に面し薬医門と前蔵、西側に中蔵と奥蔵、北側に小蔵(金庫蔵)を配す。この建物は、明治27年の酒田地震を教訓にして建てたと伝えられ、広大な板の間に架ける梁をトラス状にし大黒柱で支えるなど工夫の跡が見られる。なお、平成8年12月に主屋、同11年6月に付属の表門(薬医門)各蔵、板塀、風呂場等が国登録有形文化財となり、また、同12年12月に国指定重要文化財となりました。」
「」部分は「公益財団法人克念社」のホームページから転用。
何と言っても「石置き屋根」が特色だ。
酒田の鐙屋も石置き屋根である。
裏側駐車場から石置き屋根を見る。
「敷地2,598.24㎡(公簿)
(約787坪)
建物木造杉皮葺、石置屋根
延1,249.76㎡
部屋数19室
畳数180畳
蔵数4
屋根の置石の数約40,000個
風間家の祖は、沢海(ソウミ)藩(現新潟県新潟市沢海)の武士であったが、商人となり村上、酒田を経て、鶴岡には18世紀後半に移住したと伝えられている。
その後、鶴岡城下で藩の御用商人として呉服、太物屋を営み幕末には鶴岡第一の豪商となった。
明治期には貸金業に転じ、庄内地方では酒田の本間家に次ぐ大地主に成長し、鶴岡の産業振興に力を注いだ。その一方で児童福祉などの慈善事業を行い、現在は育英事業等に尽力している。」
「」部分は「公益財団法人克念社」のホームページから転用。
by nisi93jp
| 2013-11-05 12:15
| 見学建築・歴史・他
|
Trackback
|
Comments(0)