2009年 08月 24日
盈進学園東野高校 |
私は木造建築を創りたいために建築設計に入った。学生時代と修業時代を過ごした後、能代にUターンし、その後、間もない1982年30歳の時、世界の大型木造建築を話題にした情報誌「木と建築」-STUDIOを発信していた。
そうした中で、埼玉県入間市の盈進学園東野高等学校と筑波の「ゆかりの里」の建築群を知った。この二つの建築は戦後の大型木造建築の復権のきっかけをつくったと思う。
東野高校の設計者はアメリカのC・アレキサンダー、ゆかりの里の設計者は一色事務所の納賀雄嗣。
納賀雄嗣は16歳で単身米国に渡り、高校を経てイェール大学、そしてP・ルドルフの事務所を経て、30歳で帰国している。納賀は日本人として法隆寺などの数多くの伝統木造建築を誇りに思い、当然木造建築を知っていると思っていたがそれは昔の技術で、アメリカの現代の木造建築の盛んさの前では無知に等しいことを知り衝撃を受けたと言う。それから彼の現代のアメリカ仕込みの木造建築を探求していた。
日本の大型木造建築を復権させた二人は日本の木造建築の技術ではなくアメリカの現代木造建築なのだ。
私は雑誌で東野高校やゆかりの里を見て衝撃を受け、早速見学に行った。東野高校が出来たばっかり(外構は工事中な記憶がある)だから1984年だろうか、見学に行った。
その時のメンバーは能代木材青年クラブの有志で、後に市長になった故宮腰洋逸さんもいた。
私は1986年34歳の時に故杉山英男先生案内の北米西海岸大型木造建築研修に参加し、5万人収容のタコマドームや4階建ヘビーティンバーの集合住宅を見た。それはもう、衝撃の連続・連続であった。
能代市ではやがて宮腰さんが市長になり、東野高校を見てから9年後に木造の学校ができた。
東野高校体育館 1984年見学
東野高校多目的室 1984年見学
ゆかりの里 1984年見学
筑波のまつぼっくり保育園 1984年見学
そうした中で、埼玉県入間市の盈進学園東野高等学校と筑波の「ゆかりの里」の建築群を知った。この二つの建築は戦後の大型木造建築の復権のきっかけをつくったと思う。
東野高校の設計者はアメリカのC・アレキサンダー、ゆかりの里の設計者は一色事務所の納賀雄嗣。
納賀雄嗣は16歳で単身米国に渡り、高校を経てイェール大学、そしてP・ルドルフの事務所を経て、30歳で帰国している。納賀は日本人として法隆寺などの数多くの伝統木造建築を誇りに思い、当然木造建築を知っていると思っていたがそれは昔の技術で、アメリカの現代の木造建築の盛んさの前では無知に等しいことを知り衝撃を受けたと言う。それから彼の現代のアメリカ仕込みの木造建築を探求していた。
日本の大型木造建築を復権させた二人は日本の木造建築の技術ではなくアメリカの現代木造建築なのだ。
私は雑誌で東野高校やゆかりの里を見て衝撃を受け、早速見学に行った。東野高校が出来たばっかり(外構は工事中な記憶がある)だから1984年だろうか、見学に行った。
その時のメンバーは能代木材青年クラブの有志で、後に市長になった故宮腰洋逸さんもいた。
私は1986年34歳の時に故杉山英男先生案内の北米西海岸大型木造建築研修に参加し、5万人収容のタコマドームや4階建ヘビーティンバーの集合住宅を見た。それはもう、衝撃の連続・連続であった。
能代市ではやがて宮腰さんが市長になり、東野高校を見てから9年後に木造の学校ができた。
東野高校体育館 1984年見学
by nisi93jp
| 2009-08-24 18:37
| 見学建築・歴史・他
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