2011年 12月 04日
西方と五明光 |
昨夜は21時に寝て23時に起きて風呂に入った。
その後、読書(人々はどのような家に住んでいたか 江戸時代 日本の家 著:大岡敏昭)をして、再度深夜の2時おに寝ようとしたが、何でか、五明光が浮かんだ。
五明光は父と母が生まれた所で、現在は秋田県男鹿市の北端である。
小さい頃は、タイヨウホームにお世話になった虚弱体質で、休みの時は能代からバスに一時間ほど揺られ、終点の五明光の土間のある茅葺屋根の家と野山で過ごした。
中門造りの茅葺き屋根の家には牛がいた。
子供の足でも海と八郎潟に歩いて行けた。両者のきょりは2kmはあろうか。
タイヨウホームと言っていたのだろうか、極度に色の濃いガラスのゴーグルをつけ、バチバチと紫外線を発する宇宙船のような空間に入っていた。
今でも、五明光のその頃の海と潟とヒバリを捕った野山の情景は目にハッキリと浮かぶ。
小さい頃は妙に角張った格子のようにスケスケな漢字の西方里見と意味不明な五明光の漢字には馴染めなかった。
今は、西方浄土の西方、仏教的な五つの明るい光の五明光は気に入っているが、その五明光が頭に浮かんだので、起きて、意味合いがあるのだろうかと思いネットで調べるのを思い立った。
それらしきものはなかった。
書き込みが多いのはバスファンであり、秋田からの中央バスの終点であり、能代からの秋北バスの終点だからのようだ。
五明光に私が抱いた意味合いを打ち消しているのは江戸中期の紀行家・博物学の菅江真澄の
「左手に塩水、右手に真水を見て進めば、五明光村にきた。
むかし何でも獲る「雑魚漁」をしていたことから、「塵魚子(ごみいおこ)」が訛ったものか。語尾に「こ」をつけるのは方言のようだ。
村に入ると、宇津木を束ね、これを薦に包んで湖の岸辺に綱をつけて置いておく。
23日、34日のちに引き上げると2~3百あまりの小魚が獲れ、これを漁としていた。ここでは「漬柴(つけしば)」と呼んでいる。」
であった。
その後、読書(人々はどのような家に住んでいたか 江戸時代 日本の家 著:大岡敏昭)をして、再度深夜の2時おに寝ようとしたが、何でか、五明光が浮かんだ。
五明光は父と母が生まれた所で、現在は秋田県男鹿市の北端である。
小さい頃は、タイヨウホームにお世話になった虚弱体質で、休みの時は能代からバスに一時間ほど揺られ、終点の五明光の土間のある茅葺屋根の家と野山で過ごした。
中門造りの茅葺き屋根の家には牛がいた。
子供の足でも海と八郎潟に歩いて行けた。両者のきょりは2kmはあろうか。
タイヨウホームと言っていたのだろうか、極度に色の濃いガラスのゴーグルをつけ、バチバチと紫外線を発する宇宙船のような空間に入っていた。
今でも、五明光のその頃の海と潟とヒバリを捕った野山の情景は目にハッキリと浮かぶ。
小さい頃は妙に角張った格子のようにスケスケな漢字の西方里見と意味不明な五明光の漢字には馴染めなかった。
今は、西方浄土の西方、仏教的な五つの明るい光の五明光は気に入っているが、その五明光が頭に浮かんだので、起きて、意味合いがあるのだろうかと思いネットで調べるのを思い立った。
それらしきものはなかった。
書き込みが多いのはバスファンであり、秋田からの中央バスの終点であり、能代からの秋北バスの終点だからのようだ。
五明光に私が抱いた意味合いを打ち消しているのは江戸中期の紀行家・博物学の菅江真澄の
「左手に塩水、右手に真水を見て進めば、五明光村にきた。
むかし何でも獲る「雑魚漁」をしていたことから、「塵魚子(ごみいおこ)」が訛ったものか。語尾に「こ」をつけるのは方言のようだ。
村に入ると、宇津木を束ね、これを薦に包んで湖の岸辺に綱をつけて置いておく。
23日、34日のちに引き上げると2~3百あまりの小魚が獲れ、これを漁としていた。ここでは「漬柴(つけしば)」と呼んでいる。」
であった。
by nisi93jp
| 2011-12-04 03:47
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