2011年 11月 06日
バイオクライマティック建築シンポ・札幌小樽9:祝津茨木家中出張番屋3:ドラマ(1) |
以下の文章は「小樽祝津ニシン番屋(茨木家中出張番屋)再生物語 茨木家中出張番屋ドラマ(1)と(2)」にあります。
20100520 茨木家中出張番屋ドラマ(1)
本祝津地区漁場建築修復と地域振興に関する事業・通称:茨木家中出張番屋修復事業には、ナント表現していいか様々なドラマが展開されてます。
本事業では、北海道職業能力開発大学・駒木定正准教授研究室が全面調査の協力をして頂いてます。
昨年から10数回、同大学研究室は駒木准教授の下、学生さんも調査に加わって頂き、茨木家中出張番屋の大空間で一つも調査漏れのないようにと頑張って頂いてきました。
その同研究室の学生さんがとんでもないモノを発見してくれました。
↓ それがこれ ↓
茨木家中出張番屋玄関から入った戸袋棚に、この「棟札」があったのです。
茨木家中出張番屋の大天井空間の小屋組に登って、大黒柱に打ち付けてあるハズの「棟札」を探して見つからず、少々ガックリしていた同大学・駒木先生もその発見には色めき立ちました。
茨木家中出張番屋の建設年月日は今まで特定されてませんでした。
様々な資料調査から、明治末期と推定はされていたのです。
が、・・・その棟札には、
棟上奏
秋田県山本郡常磐村
大工棟梁 山田留三
薩麻参蔵(?)
山田慶吉
そして年月日は、
明治四五年六月五日
と・・・・。
そして・・小樽祝津の茨木家鰊番屋から棟札が発見されたことを契機に、そこに書かれていた大工棟梁のお孫さん・東京在住のY氏から、資料が送られてきたのです。
偶然が重なって、決して分かるはずがないと思っていた事実が露わになってきたのです。
↑茨木家中出張番屋の棟梁と推測される山田留三氏、中央。
額入り写真で、額には「小樽港色内町松平製」という、写真館のネームが入っている。
写真提供:山之内建築研究所
(1)
梁によじ登り棟札を見つけられずがっかりしていた同大学の駒木先生と教え子が、何度目かの調査開始前に茨木家中出張番屋の裏手の恵美須神社にお参りをし、願をかけての調査で、北海道職業能力開発大学校・応用課程建築施工システム技術科・瀬川一人君のよって、「棟札」が発見された偶然。
(2)
その発見を同大学駒木先生から聞いた、茨木家中出張番屋の設計監理の山之内建築研究所代表・山之内裕一氏が、室蘭工大で講演に来られた建築家・西方里見氏に鰊番屋の話をした偶然。
(3)
棟札の写真を秋田へ戻った西方里見氏にメールした時たまたま事務所にいた能代市役所のM氏が棟梁につながる情報を知っていたという偶然。
(4)
その能代市役所M氏の調査から、棟梁・山田留三氏の本家・秋田県能代市常磐の山田家本家・山Y夫人に連絡がつき、Y夫人から山田留三氏のお孫さん・東京在住のY・Y氏に連絡がつくという偶然。
それらが見事につながった。
人と人との繋がり・・・が、この偶然をすべて結びつけてくれた。
いま、墨書された棟札が、読み解かれようとしている。
「棟札一枚から、100年という時空を超えて一人の大工棟梁の人生を垣間見ることができる、改めて記録するという意味を考えさせられる出来事だ。」
・・・茨木家中出張番屋設計監理の山之内建築研究所代表・談
・・・その山田留三氏のお孫さん、東京在住Y・Y氏ご夫妻が、二二日の第二回おたる祝津にしん祭りに御来樽頂くという。
ドラマだ。
背筋がゾクゾクするドラマだ。
厳密には、この棟札が天井屋根の小屋組みの柱に打ち付けられていれば、これまでの明治末期建築という曖昧な表現ではなく、この棟札記載通り、
明治四五年六月五日
に上棟されたと言っていい。
が、茨木家中出張番屋の戸袋に格納されていたので、言い切れないところが残念至極。
しかし、
「棟札一枚から、100年という時空を超えて一人の大工棟梁の人生を垣間見ることがで
きる、改めて記録するという意味を考えさせられる出来事だ。」
と言うとおり、そこからも新たな事実が掘り下げられて行くのは、違いない。
北海道職業能力開発大学校・応用課程建築施工システム技術科・瀬川一人君には、ご馳走せねばならない(^^)
20100520 茨木家中出張番屋ドラマ(1)
本祝津地区漁場建築修復と地域振興に関する事業・通称:茨木家中出張番屋修復事業には、ナント表現していいか様々なドラマが展開されてます。
本事業では、北海道職業能力開発大学・駒木定正准教授研究室が全面調査の協力をして頂いてます。
昨年から10数回、同大学研究室は駒木准教授の下、学生さんも調査に加わって頂き、茨木家中出張番屋の大空間で一つも調査漏れのないようにと頑張って頂いてきました。
その同研究室の学生さんがとんでもないモノを発見してくれました。
↓ それがこれ ↓
茨木家中出張番屋玄関から入った戸袋棚に、この「棟札」があったのです。
茨木家中出張番屋の大天井空間の小屋組に登って、大黒柱に打ち付けてあるハズの「棟札」を探して見つからず、少々ガックリしていた同大学・駒木先生もその発見には色めき立ちました。
茨木家中出張番屋の建設年月日は今まで特定されてませんでした。
様々な資料調査から、明治末期と推定はされていたのです。
が、・・・その棟札には、
棟上奏
秋田県山本郡常磐村
大工棟梁 山田留三
薩麻参蔵(?)
山田慶吉
そして年月日は、
明治四五年六月五日
と・・・・。
そして・・小樽祝津の茨木家鰊番屋から棟札が発見されたことを契機に、そこに書かれていた大工棟梁のお孫さん・東京在住のY氏から、資料が送られてきたのです。
偶然が重なって、決して分かるはずがないと思っていた事実が露わになってきたのです。
↑茨木家中出張番屋の棟梁と推測される山田留三氏、中央。
額入り写真で、額には「小樽港色内町松平製」という、写真館のネームが入っている。
写真提供:山之内建築研究所
(1)
梁によじ登り棟札を見つけられずがっかりしていた同大学の駒木先生と教え子が、何度目かの調査開始前に茨木家中出張番屋の裏手の恵美須神社にお参りをし、願をかけての調査で、北海道職業能力開発大学校・応用課程建築施工システム技術科・瀬川一人君のよって、「棟札」が発見された偶然。
(2)
その発見を同大学駒木先生から聞いた、茨木家中出張番屋の設計監理の山之内建築研究所代表・山之内裕一氏が、室蘭工大で講演に来られた建築家・西方里見氏に鰊番屋の話をした偶然。
(3)
棟札の写真を秋田へ戻った西方里見氏にメールした時たまたま事務所にいた能代市役所のM氏が棟梁につながる情報を知っていたという偶然。
(4)
その能代市役所M氏の調査から、棟梁・山田留三氏の本家・秋田県能代市常磐の山田家本家・山Y夫人に連絡がつき、Y夫人から山田留三氏のお孫さん・東京在住のY・Y氏に連絡がつくという偶然。
それらが見事につながった。
人と人との繋がり・・・が、この偶然をすべて結びつけてくれた。
いま、墨書された棟札が、読み解かれようとしている。
「棟札一枚から、100年という時空を超えて一人の大工棟梁の人生を垣間見ることができる、改めて記録するという意味を考えさせられる出来事だ。」
・・・茨木家中出張番屋設計監理の山之内建築研究所代表・談
・・・その山田留三氏のお孫さん、東京在住Y・Y氏ご夫妻が、二二日の第二回おたる祝津にしん祭りに御来樽頂くという。
ドラマだ。
背筋がゾクゾクするドラマだ。
厳密には、この棟札が天井屋根の小屋組みの柱に打ち付けられていれば、これまでの明治末期建築という曖昧な表現ではなく、この棟札記載通り、
明治四五年六月五日
に上棟されたと言っていい。
が、茨木家中出張番屋の戸袋に格納されていたので、言い切れないところが残念至極。
しかし、
「棟札一枚から、100年という時空を超えて一人の大工棟梁の人生を垣間見ることがで
きる、改めて記録するという意味を考えさせられる出来事だ。」
と言うとおり、そこからも新たな事実が掘り下げられて行くのは、違いない。
北海道職業能力開発大学校・応用課程建築施工システム技術科・瀬川一人君には、ご馳走せねばならない(^^)
by nisi93jp
| 2011-11-06 16:28
| 見学建築・歴史・他
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