2010年 11月 19日
秋の旅行1:中世の館 彦部家 |
40年ほど続く慣例の秋の歴史・文化・美術を巡る旅行の今年は富岡、桐生、足利。
中世の館の風情がそのままの彦部家(桐生市)は国指定の重要文化財。
土地の形状は背後の手臼山を詰めの城とし、館を山麓に配置した典型的な中世の城の形態を成している。
屋敷地は西約130メートル、南北約100メートルの方形の土塁と濠をめぐらせた一郭。空堀、搦手、櫓台などの防御施設が残っている。
こうした現存する中世の武士団の館を見たかった。
HPを要約。
「彦部家の祖は天武天皇の第一子、高市親王から始まり、長屋王之直系なので六代目で臣籍降下、高階姓となった。
平安時代後期は武士の時代に移り、高階家第14代惟章(1053~1107)は武士として下野国佐久山館(栃木県太田原市)に下向、この地を統治する。
その娘と奥州征伐途上の源義家との間に生まれた惟頼(1089~1140)が高階姓を継ぎ、これによって源氏の血脈が高階氏につながる。
惟頼は奥州検断職を命ぜられいわきに赴任。惟頼の後、数代この地で過ごし高階家第21代光朝(1216~77)の代、奥州斯波郡彦部郷に移りこの地を領有して土地名をもって彦部姓を名乗った。
嫡男光継(1247~1316)は 鎌倉幕府の招きに応じて同族をこの地に残して出府、幕府のじっきん衆となる。
足利尊氏が幕命に従い西上するのに光継の嫡男光高(1289~1336)も同行し上京。
嫡男光春(1317~55)は室町幕府成立と共に重用され、以降代々将軍の直臣として仕えることとなる。」
鎌倉時代、足利時代、戦国時代と関東平野を駆け巡った武士団なのだろう。
中世武士館の景観。彦部館は手臼山を詰めの城とし、館を山麓に配置した典型的な中世の城の形態を成している。
母屋は入母屋造り・かやぶき茅葺で、正面約18m・奥行き約11mあって規模が大きい。
建築年代は江戸前期にさかのぼり、全国的にみても古い遺構であり、当時の上層農家の姿を伝えている。
16世紀中頃の建造の、やぐら台から見下ろすからめ手口。
空堀。
近くの山から伐採した木だろうが真っ直ぐな木があろうが、曲がりに曲がった木を工夫して利用している。腕の見せ所なのか。
中世の館の風情がそのままの彦部家(桐生市)は国指定の重要文化財。
土地の形状は背後の手臼山を詰めの城とし、館を山麓に配置した典型的な中世の城の形態を成している。
屋敷地は西約130メートル、南北約100メートルの方形の土塁と濠をめぐらせた一郭。空堀、搦手、櫓台などの防御施設が残っている。
こうした現存する中世の武士団の館を見たかった。
HPを要約。
「彦部家の祖は天武天皇の第一子、高市親王から始まり、長屋王之直系なので六代目で臣籍降下、高階姓となった。
平安時代後期は武士の時代に移り、高階家第14代惟章(1053~1107)は武士として下野国佐久山館(栃木県太田原市)に下向、この地を統治する。
その娘と奥州征伐途上の源義家との間に生まれた惟頼(1089~1140)が高階姓を継ぎ、これによって源氏の血脈が高階氏につながる。
惟頼は奥州検断職を命ぜられいわきに赴任。惟頼の後、数代この地で過ごし高階家第21代光朝(1216~77)の代、奥州斯波郡彦部郷に移りこの地を領有して土地名をもって彦部姓を名乗った。
嫡男光継(1247~1316)は 鎌倉幕府の招きに応じて同族をこの地に残して出府、幕府のじっきん衆となる。
足利尊氏が幕命に従い西上するのに光継の嫡男光高(1289~1336)も同行し上京。
嫡男光春(1317~55)は室町幕府成立と共に重用され、以降代々将軍の直臣として仕えることとなる。」
鎌倉時代、足利時代、戦国時代と関東平野を駆け巡った武士団なのだろう。
中世武士館の景観。彦部館は手臼山を詰めの城とし、館を山麓に配置した典型的な中世の城の形態を成している。
建築年代は江戸前期にさかのぼり、全国的にみても古い遺構であり、当時の上層農家の姿を伝えている。
by nisi93jp
| 2010-11-19 12:27
| 研修・鑑賞・スタディ
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